昭和41年05月22日 朝の御理解
(途中末尾切れ)
私共が天地の親神様の御恩恵を受けさして貰うて、その御恩恵を御恩恵と悟らして貰うて。神恩報謝の生活をさせて頂くと言う事、それが私共の幸せと同時に、天地の親神様のお喜びに継ながる。昭和(?)の私共の難儀というか、痛い痒いと言う様な事柄の中。又は天地悠久の昔から、ここにこうと、神定めてある。その神の願いというか、神の思いというものを、私共の神恩報謝、いわゆる教祖が仰る和賀心。和らぎ賀ぶ心をもってそれを現していく。お道の信心はそう言う事でなからなけれはならん。
おかげを受けると言う事が天地の親神様のお働きを現して行く事である。天地の親神様のお徳をこの世に輝かして行く。大変難しい事を申す様で御座いますけれどもそうなんですね。ですから、もう私共はそうした働きの中に私共は心委ねる。そこには自ずと是は言葉には表せない程の妙賀というか、味わいというか、味わいのおかげに段々なって来る様に、言うななっておる様なもの。
それを私共のその精進又は、努力をしない為にそのおかげをおかげと現す事もでけなけれは、おかげの中にあるという実感もないなりに、この世を終わって行くという人も、言わば沢山ある事であります。考えてみれば見る程に、確かにそうです。まあ例えて申しますならばね、壺の焼き物あそこにもありますけれども、この壺、あの薬が掛ってますでしょうが。垂れる様になってね。あれは一つ一つ人間が書いたのじゃない。もう、薬を上にかけますと薬が自然にタラ-と垂れる訳です。
それが何ともいえんその、一つの味わいというかね妙というものを作っておる訳なんです。ですからああ、そういう何とも知れん味わいというのが、厳密にいうと神様の働きというか、天地の妙という働きの妙という、その中に、そいうおかげが受けられるのであります。だから一番始めにこの薬を掛けると言う事。そこに自然の成り行きと働きというものがずっとこう書いたよりも人間が使うたよりも、見事にその私共に感じられる様なものがでけて来る。
昨日、総合委員会の時に、皆さんに色々発表があっおりました中に、久富繁雄さんのお話を五分か十分あまりで御在ましたけれども、いうておられましたですね。本当にもう合楽の言わば、御聖地にあれだけのお土を運ばれた、しかもそれがまあ、言葉をかるならば、天地悠久の昔から神定めに定めてあった。それがあそこに運ばれた。清浄無垢のいうなら、お土をもってあそこを埋める事がでけた。神ながらな事であるという事に、非常に感激しておられた。
勿論感激しておると言う事は、それをその現在のあれを見て感激と言う事ではなくて、矢張りあのお土が運ばれる時から、やはりそれこそ泥を拝みに行き御座った。その何ですかお土を土盛りするその御用の責任者としての、信心がそこにでけておるね。そこにそういうもう本当に神様の働きを、久富さんの心でキャッチされた。私共も気付かなかったんですけれども本当にこの泥っていうもの、この泥がですもう昔からです、椛目の御造営の為にあそこに土盛りをする事の為に、神様定めて御座ったのに違いはない。
そりゃどこの山にもあるどこの山にもあるけれども、丁度あそこの土がです、丁度何ちゅうか学校か何かでける為にとっとかなければならない働きになって、あの土(どろ)が合楽に運ばれる様になった。そういうもう、微妙な働き、それはどこどこの畑の土(どろ)を持って来ても、どこどこの田んぼの泥をもって来ても同じ様なもんだけれどもです、いろんな、そうしたいろんなまぁ穢れの無いその土(どろ)をあそこに運ばせて頂けれると言った様な事も、思や思う程確かに神様の微妙な働きがある。
以前あの今の、合楽の停留所があそこんところついこの頃まで、竹野郵便局前と呼んでおった。それが御造営の始まるちょっと前頃から、郵便局が移転されましたので、あそこの呼び名が合楽と変わった。合楽停留所ともう、こう言う様な事でもです、してわざわざあすこに、合楽行きといったバスまででけておる。もうそれを思えば思う程です、もう何とはなしに。
そうしたその、丁度それに薬がかかって自然とこう逃れておる様にね、それが何ともいえん形成美と言う様なものを、構成しておると言う様に、何ともいえんその美しい働きと、妙なる働きというものを、そこから感じない訳にはまいりませんね。ですからそれがまあいうならば、皆さんの信心、私を中心にしてと、こう言う事になりますけれども、もっとそれをいうならば。
結局、大坪総一郎の信心、心一つの上に天地がそういった働き、しかも天地悠久の昔から、そういう神定めてあったという働きがあの様な姿で、あぁいう風に、現れて行って行きよるね。そこんところに私は、この神様の働きの妙、それを現して行くと言う事は、只、自然とうでこまねいていたでけではいけなかったと言う事ね。私共の心の上に日々いわゆる和(やわらぎ)賀(よろこぶ)心、そのそういう心をどういう場合にも頂けていける事に精進させて頂くね。
例えて申しますなら、苺なら苺というその果物がある。けれどもその苺というものがあれをつぶしてこの熱をかけますと、あれが苺ジャムというそのあまい、何時までおいても悪くならないと言った様なものが、出来あがって行く様にね。それを只、苺だけでその終わって行きよるという人が、どの位あるか解らんね。信心とはそれを私は、ジャムにする働きをいうのであると、私は思うのですね。私共が一生一代を苺で終わるか、その一生一代のその事がですね、信心によって道付けられる。
信心によって私共の心が浄化される。その事を私はまぁ神様に通う、場合によってはお願いをする心、場合によってはお詫びをする祈りね、場合によっては御礼を申し上げるそういう心。そういうその心が神様へ通うね。その神様へ何とかどういう方法をもってからでもよいから、通うて行くという働き、それがどこまでも願いが心をもって、喜びをもって延長する様にね和賀心、和ぎ賀ぶ心そういう心を持って神様に何時もこの、交流する事に精進努めて頂く所に、自ずと神様を現し申し上げる事が出来るね。
その神様を現し申し上げれると言う事は、私共が神様の働きとは、恐れ入ってしまうと、例えばあの繁雄さんが。昨日あのその事をいうてから感激しておられました様に、神様のお働きちゃ恐れ入ってしまうと、言う様にです、それが眼前の事から、又は何時の間にが何とはなしにおかげになって行く。その姿というものの中にです、私共の日々生活さして貰う、もう何ともいえん神様の働きの中にあの事は、困った事だと思って居った様な事の中からでも、そう言う良いものが段々と生まれて来る。
私共がおかげを受けるという事は、そう言う風に神様のお働きというものを現して行く事。ですからその為には私共が神様に真っ正面から、ぶっかって行くだけの信心ね、詫びる、願う、御礼ね、そういうその事柄が実意をもってそのなされて行く。昨日是清さんがここでお届けをしておられます。先日は、二、三日前、あのこんなお届けをしておられました。お夢の中に大黒様の養子に迎えられておる。貰いにきとんなさるげな。堤清さんを、そういうそのお夢を頂かっしゃったね。
お互いがその大黒様との、一つのつながりが養子に貰われて始めてでけるのですね。それまでは他人であっても養子に貰われれば、そこに例えば、親子であれば親子にね、皆さんが椛目に御縁を頂かれたという事はですね。もういうならば、神様からあれを一つ養女にしょうと、あれを養子にしょうとかという、神様の願いがあっての事なんです。親子としての恩との関係を作りたいという願いがあっての事なんですね。
そうして、昨日頂いて居られるのはその、私の背中の方へこう自分も背中を向けてよって来よる、そのお知らせであった。そしたらあの私共の母がですね、後からよって行ったちゃいかんね。前からよっで行かないかんと言う様な事を、その頂いたと言うておられます、なし後からよって行っちゃいかんか。後からよって行きよったら、肘鉄砲くらう言うお言葉を頂いた、後からこうやって行ったら、肘鉄砲の様な事になる訳で、前からよって行かなならん。
養子に迎えられると言う事も、その今のそういう働きもね、もう真っ正面から神様に打ち向うて行くと言う信心ね。是は大黒様から養子に迎えられる事はよかばってん、自分は長男じゃが、後は堤の家は、どうなるじろうかと思いよる所じゃったね。そこを一つ、おかげを頂かして頂いてね、神様の養子にでも迎えられる様な、お互いをおかげを頂かして頂かねばならんね。
それに私共がどうでも、そうした神様との継ながりを作って行く為にですね、しかもそれが、場合によっては詫びしなければおられない様な事、お願いしなけれは居られない。思えば思う程御礼を申し上げなければ、居られないという。その御礼とかお詫びとか願いとかという、その時神様と交流する。そういう心を持ってです、私共が天地の親神様の、もう、それこそもう、それこそもう、昔の大昔からですね、神定めてある。例えばここに堤清という人の為におかげを下さろうとしておる働きがです。
それをそういう心で現して行くね。それがその例えば、私共の目の前の事からいうならば痛い痒いと言った様な事からですね、痛い痒いという中からでもです、その事のおかげを頂く為に真っ正面から、ぶっかっていく信心ね。目先のそうしたおかげ、そして私共ではもう、計算する事も出来ない程の天地の一つの摂理の中にです、私共があって、そしておかげを受けて行くと言う事が神様を現して行くと言う。神様のそういう御摂理の中に、お生かしのおかげを頂いておっても、それを現していかなかったらね。
それは只、私共の一期に終わってしまう。私共一代に終わってしまう。只、苦しい事があった、楽しい事があったという。一期に終わったんでは詰らん。その苺がですね、私共一生一代、一代の中にです信心の言わば、それに熱をかけさせて頂くと言う事によって、私共の和らぎ賀ぶ心というものを、いよいよ頂かして貰うて、神様と絶えず交流しておる働きの中にですね。丁度焼き物に薬がかかってその、見事な美を作って居ります様な、一生であらなけれはならん。
そこにもう、本当に思えば思う程に、神様の働きの深さ、広さにゃ只いよいよその深さ広さに只、只驚いてしまう。私共のもういうならそれこそ、天文学的な教学になるでしょうね。もうそれこそ深いというたら、もう、それこそ地よりも海よりも深いでしょうね。 その深かぁい、広ぉい天地の親神様の思いがです、たった私、大坪総一郎一人の為にいうなら、堤清の一人為に、働きを受ける事が出来るのが信心ね。そしてそれを現して、それを私共が何ともいえんおかげ頂いて、有難いという。
おかげに現していけれるのが信心。そしてそれを、一生一代のや私共、一期のものにせずにね、それが孫子の末まで残していけれるね、只、一期に終わらずそれに只、熱をかけた事によってジャムが生まれる。それが何時々までもね、置いても腐りもしなければ悪くもならない様なものをです、作って行けれるのが信心。だから目先のおかげはいけないというのじゃないね。もう小さい事でいうならば、目先の痛い痒い事からです、私一人の為にです、天地が何億年も前から準備しておって下さる。
そういう働きを頂きとめて行くと言う事、キャッチして行くと言う事。そういう働きがです、そういう中にあってです、神様の働きに恐れ入ってしまうと言う事になって行くのですね。もうそれはそれは、もう何ともかんともいえん。そう言う様な働きの中に、例えもし、あってもそこんところが悟れず、信心の道を解らずにね、只それを苺の事として終わって行ったのではね、相すまん事になるんです。
私共はもういうならば、そういう神縁なお働きの中に、椛目に御神縁を頂いたと言う事なんです。ですからその縁を縁として、本当に生かして行く所の働きね。まあその事を日々こうやって頂いておる訳なんです。ですからもう、どの様な小さい事の中にもです、お心に添い奉らせて頂こうという念願が、しかも和らぎ賀ぶ心で、その事を頂いて行こうとする願いをもう、絶えずこの中に頂き続けて、おかげを受けて行かなければならん。何か今日の御理解はもう本当、感じで分って頂きたい。
もう理屈じゃとても理屈で私がその説明の出来る、お話じゃありませんでした。けれどもです、何とはなしに例えていうならば、あのお土の事やら、例えば合楽という所にね椛目の金光様、いうなら合楽の金光様にお参りするのに、竹野郵便局の前で降りらなならんと、はい、ここは竹野郵便局の前で御在ますというよりもね、合楽というその所で利用さして頂く。そこに合楽という教会があるという。
(途中末尾切れ。)